ウラスタイにて1  

 新疆伊寧山間部紀行

安平2



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 ウラスタイ3には300戸あまりの人家があり、そのうちの150戸あまりはロシア族である。ここは伊犂地区で最もロシア族が集まって住んでいる土地の一つであり、ロシア族を中心とした村といえる。この村の村長はロシア人である。村にはロシア小学校さえ開かれている。

 私がウラスタイに行く前に、私は既にこれらのロシア族について人々から紹介されていた。彼らの言うところによると、彼らは古い教派で、キルジャーク派と呼ばれており、ロシアのイワン雷帝の時代にキリスト教から分化して形成されたという。彼らはよそ者と付き合わず、髭を剃らず、煙草を吸わない。よそ者が彼らの家にやって来た時も、煙草を吸ってはならず彼らのものを使ってもいけない。もし人が彼らのルールを知らずに煙草を吸い始めたら、彼らはすぐにイコンを壁から下ろして外に逃げる。もし彼らのものを使ったら、彼らはその使われたものをすぐに壊すか消毒する。

 私がウラスタイに来た2日目は、折りよく日曜日だった。この日は村のロシア族が小学校で集会を開き、牧業税について話し合う予定だそうだ。開会時間になる前に彼らは小学校の前の広場に全員が集まっていた。彼らの体格はみなとても立派であり、彼らは髭を剃ったことがないため、それぞれの顔には濃い髭が生えている。二十歳くらいの若者でも、

既に顔全体に髭が生えている。このロシア族たちの服装においても、歩く姿勢においても、一種の『旧派』の風格が現れている。彼らのある者は雑談し、ある者はカード遊びをし、またある者は静かにひなたぼっこをし、騒々しい雰囲気はまったくない。

 郷長に紹介を受けた30歳くらいのダンニーというロシア人を私は訪ねた。彼によれば、1929年、彼がまだ6歳だったときに、彼らはソ連から中国にやって来た。彼らこの教派の人々のほとんどは、アルタイ地区4の山間部に住んでいた。1947年以降、一部の人々が伊寧に続々とやって来て、伊寧東部のいくつかの県の山間部に分散した。

 彼らの生活で際立っているのは、髭を剃らず、煙草を吸わないことである。もうひとつ厳格な習慣があり、それは食事に使う食器を自分の家族の中では互いに分けずみんなでいっしょに使うが、家族以外の客には決して使わせないというものである。このため、それぞれの家には普通、「みんなのための食器」と呼ばれるものと、「家族用の食器」と呼ばれる2そろいの異なる食器がある。このような習慣があるのは、伝染病を防止するためなのかもしれない。

 彼らがこのような寂莫たる渓谷に住んでいるにもかかわらず、この偉大な時代の中においては、私たちはこの辺鄙な土地にも変化をみることができる。新しい力はゆっくりと大きくなりつつある。年老いた世代が、若い世代の合理的な娯楽活動に反対し、若者たちが踊ることに反対し、若者たちが歌うことに反対し、若い男女が一緒にいることに反対しても、この保守勢力は若者たちの新生活に対する自然な要求を押さえつけることはできない。現在、既に一つの青年会が組織されており、小学校が彼らのクラブになっている。彼らはそこに、祖国建設と各種のソ連共産主義を宣伝する絵の入ったポスターを掛けている。夜になると彼らはそこで本を読んだりチェスをしたりする。踊ることはできないが歌うことはできる。女性はまだ一人で来ることはできないが、誰かと一緒になれば来ることができる。新しい力の成長が、今まさに彼らの面目を徐々に変化させつつある。


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 ここに暮らすロシア族は、仕事においては全員が非常にまじめに働く人々である。彼らの主な仕事は耕作と養蜂であり、その他に小規模な養豚、水車を利用した臼の使用、運輸業などの副業を行なっている。牧畜業に従事するものはとても少ない。


 ウラスタイ村では、全部で2つの互助組があり、どちらもロシア族によって作られている。私はそのうちの一つの互助組の組長を訪ねた。彼は姓をザイツェフ、名をグリゴーリーという。30歳ぐらいで、ほっそりとした顔立ちが、彼の両目をよりいっそう生き生きと目立たせている。彼が住んでいる一軒の家には床板と天井板があり、窓には白い窓紗が張ってあり、窓台には植木鉢が置かれていて、さらに壁には絵が幾つか掛けられている。部屋には子どもが寝るためのゆりかごがとても太いばねで天井からつるされている。ばねは自然とリズムを持って上下し、子どもを見守る人が誰もいなくても、子どもは安らかに眠ることができる。

 グリゴーリーはとても話し上手で、話は筋道が立っていて、私に彼らの互助組の情況を紹介してくれた。彼によれば、1952年に共産党が山までやって来て、今までは貧乏人は労働力を組織してともに協力しなかったので生産を発展させることが非常に難しかったのだ、と宣伝をした。「私たちは党の宣伝を聞き実にそのとおりだと思ったので、党の指示に従い1952年に組織し始めた。この年に収穫した食糧は、戸別に仕事をしていたときよりも明確に多かった」。

 彼らがこの互助組を組織したときには12戸だった。そのときはどのように仕事をして良いかわからなかったので、各戸が自分の土地にそれぞれ種をまきそれぞれ収穫した。ただし作業は、集団協力を実行した。しかし種まきと除草、収穫の際にどこを先に行なうかという問題が起こり、みんなの間で諍いがたえなかった。2年目には改組を行ない、5戸だけが参加し、そして1年前の経験を参考に、合同播種と合同収穫に改め、仕事の軽重や成績の優劣などを評価して点数をつける勤務評定を実行した。同時に副業生産を増加させた。この年彼らは250ムーあまりの土地を耕し、小麦、燕麦、豆などの作物を全部で1645プード収穫した。彼らの勤務評定標準によれば、平均して労働者11日の労働量あたりで4.5プードの食糧を生産することができる(1プードは約32キロに相当する)。このほかに彼らの養蜂、養豚などの副業もすくなかぬ収入となっている。土地についていえば、組員はみな土地を私有していない。土地はすべて政府が調整している。ここ数年、彼らのこの互助組の財産は常に増加している。村のもう一つの互助組が買った麦刈り機の他に、彼らは現在、洋式の犂1つ、(ウマやラバでひく)荷車2台、ウマ8(そのうち4匹は耕作馬)5匹の小さな馬、5頭の乳牛、20頭余りの豚、90箱の蜂を所有している。男女の区別なく同一の労働には同一の報酬が与えられる。毎晩勤務評定を行うが、決して十分に精密かつ厳格なものではなく、労働の質の問題も評価しない。彼らのこの互助組はコミュー

ンの性質も多少持っており、もしも組のなかの誰かが病気になった場合は、彼の用事はみんなで彼を助けてやるが、勤務評定は与えない。もしも彼の病気が仕事中に受けた傷によるものならば、いつも通りの勤務評定を与える。

 私は彼に、今年の生産についてどんな計画があるかとたずねた。彼は、「養蜂、乳とバターの生産、養豚などの副業を拡大する準備をしている。同時に、彼らの互助組を農業生産合作社に改組するための許可を県に求めている」と答えた。彼はこうも言った。:私たち4戸の組員には家がないのだが、今年と去年の生産が良かったので、彼ともう一人の組員は今年、自分で家を建てる。残りの二人も来年新しい家を建てる用意をしている。彼は興奮しながら言った。「我々は互いに援助し協力しあっている。23年やっただけで皆新しい家に住んでいる。共産党の話は聞くべきだ。聞けば良いことがあり、聞かなければ損をする」。



(訳 塚田力)

1 安平: «拉斯台 新疆伊宁山区»«»1956年第2期,北京,新察出版社,第16

2 1909年江蘇省宜興市生まれ。1936年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでハロルド・ジョセフ・ラスキに師事。1957年、反右派闘争において失脚。196661日の『人民日報』社説「すべての妖怪変化を一掃しよう」の中で「大右派」とされ、「掃討」の対象となる。度重なる批判闘争の後831日に自殺未遂、9月上旬に失踪。生死不明。

3 現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州尼勒克県烏拉斯台郷烏拉斯台村。

4 中国領のアルタイ地区。